2015年8月17日月曜日

天津大爆発の謎(4):「一党支配体制が継続できるか否か」、共産党の内部抗争に発展?

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● BBCニュース 2015.8.18 視聴時間 02:30
天津爆発、2日たっても燃え続けた炎 家を失った3000人
中国・天津市の「浜海新区」で8月12日に起きた爆発事故では、発生から2日たっても火が燃え続け、有毒な化学物質の流出が懸念されました。行方不明者に関する公式情報が遅れる中、住民の家族は張り紙で情報を求めています。また家を失った3000人が未来への不安を抱えています。ジョン・サドワース記者のリポートです。


yahooニュース 2015年8月17日 6時30分 遠藤誉
http://bylines.news.yahoo.co.jp/endohomare/20150817-00048545/

天津爆発、習近平政権揺るがすか?

 8月16日時点で死者112人、96人不明とされる天津の爆発事件は、習近平政権を揺るがしかねない。
 天津市濱海新区は昨年3月に出された国家新型城鎮化計画の中核「京津冀一体化計画」の根幹を成しているからだ。

◆国家新型城鎮化計画と「京津冀一体化計画」とは何か?

 2014年3月16日、中国政府は「国家新型城鎮化計画(2014年~2020年)」なるものを発表した。
 これは都市にいる3億に近い農民工(農村から都市への出稼ぎ労働者)の人権に配慮し暴動発生率を減少させるため、
 都市にいる農民工の都市市民化や農民工を出身地に戻し、
 内陸の都市化を進め、
 都市で戸籍のない農民工に新たな戸籍(住民票)を与えて郷鎮程度の小都市に定住させ、
 そのための就職先を創出させる、
といった構想に基づくものだ。

 2013年11月に開催された三中全会で決定した「中央全面深化改革」の一環で、中央全面深化改革領導小組」(全面的に改革を深化させる中央指導グループ)を中共中央の下に新設した(組長は習近平国家主席)。

 「城鎮化」の中の「城」は「都市」の意味で、
 「鎮」は「地方農村部の市街地」あるいは「町」という意味だ。
 日本的にイメージする都会の都市ではなく、都市の近郊(郊外)や内陸部の中小都市などを指す。
 したがって「城鎮化計画」は概念的には「都市化計画」と理解してもいいのだが、中国の広大な内陸部のことを考えると、日本の多摩ニュータウン的なイメージとまた少し異なる。

 さらに東沿海地区に集中している大都市の中に存在している都市住民と出稼ぎ農民工との間の二極化も深刻な問題なので、その問題解決も含んでいるという意味で、日本人が描く「都市化計画」とは必ずしも一致しない。

 ところで、都市にいる全農民工の数は2.69億人と、ほぼ3億に近い。

 経済が最も繁栄している中国の大都市圏である
 「京津冀(ジン・ジン・ジー)(3J)」(北京、天津、河北省の一部)、
 長三角(上海市、江蘇省、浙江省を含む長江三角州地帯)および
 「珠三角」(広東省、香港、澳門一帯)
に流動人口が集中し、
 全国2.8%の面積に中国総人口の18%が居住し、
 このわずか
 2.8%の地域が中国全土の36%のGDPを生み出し
ている。

 中でも
 「京津冀(きょう・しん・き)」は首都・北京と直轄市・天津を含んでいるだけに「ジン・ジン・ジー(3J)」と呼ばれ
て注目され、習近平政権における新しい形の国内経済を牽引していく国家新型城鎮化計画の花形を成すものであった。
 河北省を意味する「冀」は秦皇島や北戴河をはじめ、保定や張家口、承徳など、河北省の一部を含む。

 2014年3月5日、李克強国務院総理は全人代における政府活動報告で「環渤海および京津冀地区経済協力体制」を発表したが、
 その一週間前に習近平国家主席は
 「京津冀一体化計画」を「中国の重大な国家戦略」
と位置付け貫徹実行を強調している。

 中共中央政治局は2015年4月30日に政治協会議を開いて、「京津冀共同発展計画綱要」を批准した。
 それにより交通・物流・関税などを簡便化するためにインフラ建設を加速させ、輸出入に関しても、「京津冀区域」であるならば、一回だけ税関を通せばよいことにして業務の能率を高めるよう指示している。
 2016年までに北京を中心とした外環道路をさらに拡張する計画が進んでいた。

◆天津市濱海新区

 天津において「京津冀一体化」の中心をなしているのが、今般爆発事故を起こした濱海新区である。

 天津市は中華人民共和国(現在の中国、新中国)が誕生した1949年から直轄市として行政区分されていたが、1958年2月に一時的に河北省天津市に区分され、1967年にまた中央行政の直轄市に戻っている。
 つまり、天津市は新中国誕生時には、北京市、上海市と並んで「三大直轄市」としての地位を確保していた。
 ところが改革開放が進むにつれて、天津市は首都北京と改革開放の花形のような上海の華やかな飛躍に置いてきぼりにされ、90年代半ばには、見るも憐れな、名ばかりの直轄市となった。

 そんなときに現れたのが「重慶市」の直轄市案である。
 1997年、重慶市が4番目の直轄市として中央に認められた。
 あわてたのは天津市だ。

 1994年3月の全人代で、天津市はすでに「天津経済技術開発区」を新設して10年の年月をかけて濱海新区を建設することを国家戦略とすることを提案していたが、
 2005年3月、全人代は第11次五カ年計画として「濱海新区(Binhai New Area)」設立を決定したのである。 
 現在までに1.5兆元(約30兆円)の投資をつぎ込んで「十大戦役」戦略を遂行してきた。

 習近平政権は、「京津冀一体化」計画に沿って、2014年12月12日,
 天津市濱海新区を「中国自由貿易試験区」
として批准した。

 「自由貿易区(Free Trade Zone)」は、アメリカを中心としたTPPに対抗して、中国を中心に関係国と特定地区を指定して結んでいるものだが、
 すでに決定して進めている地区と試験的にこれから決定する地区の二つに分かれる。

 2013年10月26日に上海自由貿易区を正式に決定し、アジアインフラ投資銀行(AIIB)構想の旗頭にしようとした。
 2015年3月24日の中共中央政治局会議は広州南沙、深セン蛇口および珠海横琴に自由貿易区を設置することを決議。
 次いで天津、福建を自由貿易試験区として決定した。

◆天津の焦りが事故を生んだ――許認可制の腐敗構造

 これらの経緯から分かるように、天津はまず改革開放で後れを取ったことに焦り、重慶が直轄市に選ばれたことに焦り、そして何よりも濱海新区により、これらの後れを挽回しようと焦った。

 開発区が建設されるときには、大量の許認可が必要となってくる。
 1994年から2005年の約10年間の開発時期は、まさに「腐敗真っ盛り」の時代であった。
 許認可の窓口には各分野各レベルにおける党幹部がいて、そこは腐敗の温床になっていた。
 そこに「一刻も早く発展させなければ」という焦りがあれば、腐敗もいきおい、正当化されていく。

 全国にあまねく蔓延した腐敗に厳しく手をつけたのは習近平政権になってからだ。
 許認可制度も多くが撤廃されたり簡略化されて、腐敗の温床を崩し始めてはいるが、2005年から10年も経っている。
 計画が提案されたころから数えれば20年だ。
 その間に、どれだけの不正が蓄積されてきたかしれない。

 2007年から2013年まで天津市の書記を務めていた、現在のチャイナ・セブン(中共中央政治局常務委員会委員7名)の一人である張高麗は、この不正に対して責任を追及されてしかるべき立場にある。

 今般の事故の原因となっている猛毒のシアン化ナトリウムは、700屯保管されていたとされ、
 その取扱いに関する許認可の多くは、闇で取引されていた
と考えていい。

 そのために消防関係者がシアン化ナトリウムであることを把握しておらず、また水を掛けると爆発することなどの危険物取扱に関する情報も共有されていなかった。
 その結果、放水による消火中に二次爆発を招いたため、
 現在行方不明中のほとんどが消防隊員となっている。

 飛散したシアン化物が土壌に染み込み、
 下水道を通して海に流れ、一方では大気を汚染させている。

 8月16日夕方6時、最高検察院が瑞海公司の危険物倉庫の管理状況に関して現場検証に入ったと、中国の中央テレビ局CCTVは臨時ニュースを報道した。

 防毒マスクをつけた調査員の姿は、習近平政権の危なさを連想させる。
 習近平政権にとって腐敗撲滅は中国共産党一党支配が続くか否かの分岐点である。

 日本の中国研究者および一部のメディアは、今もなお腐敗撲滅運動を権力闘争などと評する者がいる。
 あまりに中国の実情を分かっていない証拠で、胡錦濤時代と習近平時代では、状況はまったく異なっていることに気がついていない。
 中国を読み解く日本の目を、ミスリードする危険な行為だ。

 いま習近平政権が闘っているのは、
 「一党支配体制が継続できるか否か」
であって、権力闘争ではない。
 権力闘争が真っ盛りだった胡錦濤政権の「チャイナ・ナイン体制」と習近平政権の「チャイナ・セブン体制」はまったく異なる。
★.習近平政権には権力闘争をするゆとりなど、
 すでにない
のである。

★.習近平政権は対外的には膨張によってしか体制を安定させることができず、
★.国内的には、まさにこのたびの天津濱海新区を含む
 「京津冀一体化」を中心とした国家新型城鎮化計画に国家の命運を賭けているのである。

その意味で天津の爆発事件は、習近平政権を揺るがしかねない要素を持っている

遠藤誉:東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会科学研究所客員研究員・教授などを歴任。単著に『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』『チャイナ・ナイン 完全版』『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』『卡子(チャーズ) 中国建国の残火』『チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男』『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』『中国人が選んだワースト中国人番付 やはり紅い中国は腐敗で滅ぶ』『完全解読 「中国外交戦略」の狙い』など多数。共著に『香港バリケード 若者はなぜ立ち上がったのか』。



現代ビジネス 2015/8/17 06:36 近藤 大介
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44749

天津の大爆発は江沢民派の反撃か!? 
習近平vs江沢民の仁義なき戦い、
いよいよ最終局面へ


●中国人民抗日戦争記念館に展示される歴代「皇帝」のパネル (筆者撮影)

 先々週、北京を訪れた。中国はこの夏から秋にかけて、いろんな意味で転機を迎える予感がした。
 今回は、特に、毎年8月上旬に開かれている中国共産党の重要会議「北戴河会議」を中心に、感じたところを述べたい。

■江沢民派の一掃に勝負を賭ける習近平主席

 中国共産党幹部は、8月上旬に1週間程、河北省北戴河で、いわゆる北戴河会議を開く習慣がある。
 この会議の特徴は、中国共産党の最高意志決定機関である党中央政治局常務委員会議(トップ7)に加えて、長老(常務委員OB)たちにも発言権があることだ。

 今年は、この会議が、ここ3年近く続いてきた習近平執行部と江沢民一派の権力闘争の「決戦」の場になる予定だった。

 まず、習近平執行部は、多くのことを長老に承諾させようとしていた。
 まず第一に、反腐敗運動は、これからも一切のタブーなく行うということだ。
 このことは、
 江沢民派筆頭の曽慶紅元国家副主席及びその一族、
 江沢民元主席の長男・江錦恒ら江沢民一族
を、これから捕らえていくと宣言することに他ならなかった。

 それから、北京、上海、天津の中央直轄都市のトップ人事を一新しようとしていた。
 北京市の郭金竜党委書記(北京市トップ)は、胡錦濤前主席の子飼いである。
 また、上海市の韓正党委書記と楊雄市長は、江沢民元総書記の子飼い。
 天津市は胡錦濤前主席に近い孫春蘭党委書記を、習近平主席が昨年末に追っ払った。
 だが、彼女の後任を巡って、習近平・江沢民・胡錦濤の「3皇帝」が三つ巴の権力闘争を繰り広げていて、決着がついていない。

 そのため、伝えられるところでは、習近平主席は、まず一番手に負えない上海市のトップ二人を飛ばし、自分の一番の子飼いである栗戦書・党中央弁公庁主任(官房長官に相当)を上海市党委書記兼任とし、応勇・上海市党委副書記を臨時代理市長に据えようとした。

 次に、人民解放軍の改革である。軍に関しては、江沢民派の「2大巨頭」と言われた徐才厚・元中央軍事委員会副主席を昨年、失脚させ(今年3月死亡)、もう一人の郭伯雄・元中央軍事委員会副主席は今年4月9日に拘束して取り調べを開始し、7月30日に軍事検察院への移送を発表した。

 狙うは、軍の江沢民派の一掃と、自派で幹部を固めることだ。伝えられるところでは、習近平主席の意向は、中央軍事委員会の副主席を、いまの二人体制から4人体制にする。
 名前が挙がっているのは、張又侠総装備部長、劉源総後勤部政委、許其亮空軍上将、劉福連北京軍区政委である。
 いずれも現在は習近平主席に近い上将だ。
 国防部長(防衛相)には、劉亜洲国防大学政委をあてる。

 また、現在ある7つの軍管区も、
東北、西北、東南、西南の4大軍管区に整備し直し、
人心及び利権の一掃を図りたい意向だという。
 つまり、習近平主席は、今年の北戴河会議で、勝負を賭ける気でいたのである。

■「習近平包囲網」を築いて反撃に出た江沢民派

 ところが、江沢民派も同様に、勝負を賭けた。
 江沢民派が頼ったのは、周本順河北省党委書記だった。
 周本順は2003年から10年間にわたって、「江沢民の金庫番」として知られた周永康前常務委員に仕えた、バリバリの江沢民派幹部である。
 周本順は、河北省党委書記という立場を使って、7月22日に同省の北戴河に乗り込んだ。
 そして、すでに北戴河に滞在している長老たちに、「習近平包囲網」の根回しを行ったのである。

 習近平主席は、その過激な反腐敗運動から、江沢民派だけでなく、胡錦濤派やその他の長老たちからも評判が悪い。
 そこで江沢民元主席は、今年の北戴河会議で長老たちと組んで、一気呵成に「習近平包囲網」を築いてしまおうとしたのである。

 この「消息」は、すぐに中南海に伝えられた。習近平主席が激昂した様子が、見えるようだ。
 習近平主席と王岐山党中央紀律検査委員会主任は、直ちに周本順党委書記の解任と身柄拘束を決定。
 7月24日、中央紀律委監察部のホームページで、「周本順河北省党委書記の厳重な紀律法律違反により、調査を開始した」と発表。
 4日後の7月28日には、党中央組織部(人事部)が、周本順の解任を発表した。

 習近平主席はこの頃、重大な決断をした。
 北戴河に中央紀律検査委員会の要因を派遣して、周本順がどんな根回し活動を行ったかを調べると同時に、今年の北戴河会議の中止を決めたのである。
 その代わり、引き続き中南海から、権力闘争を仕掛けることにした。

 習近平主席は7月30日、臨時の中央政治局会議を招集。
 7月20日に定例の中央政治局会議が開かれているので、これは極めて異例と言えた。

 習近平主席はそこで、自らが組長となって、党中央統一戦線工作指導小組を設立すると発表。
 そこで中央の重大な政策決定や方針研究を行うとした。

 なぜ習近平主席は、次々に「小組」(小グループ)を作るのか。
 それは、党中央政治局常務委員会が信用できないからだろう。

 現在のトップ7で習近平主席が本当に信頼しているのは、王岐山だけである。
 序列2位の李克強首相とはいまは対立していないが、胡錦濤派筆頭であることに変わりはない。
 3位の張徳江、5位の劉雲山、7位の張高麗は江沢民派であり、4位の兪正声は日和見主義者だ。
 つまり、7人で採決をすれば、習近平原案は否決されてしまうリスクがあるのだ。
 そのため、重要事項は常務委員会議ではなく、「小組」で決めてしまおうという意図である。

 この時の統一戦線指導小組設立の目的は、打倒江沢民一派に他ならない。
 現役の政治局員たちに、「踏み絵」を踏ませたのである。

■「『人が去れば茶は冷める』は自然の規律である」

 8月5日、官製メディアの『財経国家週刊』は、
 「待つ必要はない、北戴河に会議はない」
と題した意味深な記事を流した。
 この記事は、毛沢東時代以降の北戴河会議の歴史を振り返った後で、次のように結んだ。

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 〈つい先日の7月20日と30日、党中央政治局は2回も会議を開いた。
 そこで第13次5ヵ年計画や中国共産党第18期中央委員会第5回全体会議の方針を決め、経済対策を決め、「大虎」(大物の腐敗分子)の退治を決めた。
 喫緊の重要事項はすべて話し終わっているのだ。
 それをこれから数日、十日くらいのうちに、北戴河へ移動して再度話すことに、意味があるのか? 
 必要があるのか? 
 可能なのか? 
 もし信じないなら、微信(WeChat)で「北戴河会議」と検索してみるがいい。
 噂の「予言話」のようなものは、ほとんど削除されている。
 これが何を意味するかは、一目瞭然だろう。
>>>>>〉

 続いて8月10日、党中央機関紙『人民日報』が、決定的な社説を出した。
 タイトルは、
 「『人走茶涼』は、新たな政治の状態となるべきだ」。
 「人走茶涼」とは、「人が走り去れば残された茶は冷める」ということで、「その人が然るべき地位でなくなったら、周囲の者は去って行く」という意味に使われる。

<<<<<
  通常、「人走茶涼」という言葉は、否定的な意味で使われる。
 人情味のある交流も冷めてしまうということだ。
 だがよく考えれば、「人走茶涼」は自然な現象だ。
 熱い茶がいつまでも熱いわけはなく、自然に冷めていく。
 茶を啜っていた人が去れば、湯をつぎ足す必要があるだろうか? 
 こと政治について考えてみれば、多くの指導者幹部たちが「人走茶涼でいいのか」と言って、権力のしっぽを放さない。
 もとの部署の政策決定に口出ししたりして、権力の「余熱」を発揮する。
 お茶は自然に冷めるものなのに、それを打ち破って加熱し、
 「人は去ったのに茶は依然として熱い」状態を作り、権力の「アフターサービス」を得ようとする。
 このたび倒された「大虎」周永康は、四川省を離れた後も、直接間接に四川省を支配した。
 それによって四川省の経済発展や政治の状態に厳重な影響をもたらした。

 「人が去れば茶は冷める」は自然の規律であり、新たな政治の状態だ。
 党は第18回大会以降、「幹部の清正、政府の清廉、政治の清明」の政治環境を作り出してきた。
 つまり「人が去れば茶は冷める」の状態を縮影させてきたのであり、全体的に効果を挙げてきた。
 指導者幹部はその地位にいる時に責任をもって職務にあたるが、いったん退職したら、人工的に加熱する必要はないのだ。
 その職務を引き継いだ者が、さらに想像力を駆使して、社会を発展させてゆけばよいのだ。

 その意味で、「人が去れば茶は冷める」政治状態を確立してゆくべきである。
 これは一朝一夕にできることではない。
 だが、反腐敗運動をさらに大きくしてゆき、この障害をなくしていかねばならない。

 まさに「人が去れば茶は冷める」状態が待たれているのだ。
 老同志を尊重し、老同志の良策は吸収しつつも、政治の決定の原則とボトムラインは堅持せねばならない。
 そうすることによって初めて、清明な政治状態が確立できるのだ。
>>>>>

■天津の爆発事故は単なる事故ではない

 これほど強烈な『人民日報』の社説は、久しぶりに見た。
 翌日から、多くのメディアがこの社説を引用し、賛意を表明し始めた。
 もちろん習近平主席が、メディアを統轄する劉雲山常務委員を突き動かしてそうさせているのだろう。
 つまり習近平主席は、「江沢民潰し」に本気になっている
ということだ。

 これに対して、江沢民一派はどう対抗するのか。
 「窮鼠猫を噛むではないが、絶対にこのままでは済まない」
というのが、北京で聞いた大方の見方だった。

 そんな時、8月12日の深夜に、天津の濱海新区で大爆発事故が起こった。
 速報では44人死亡、521人重軽傷などと報じられたが、とにかく未曾有の大事故である。

 なぜこの時期に、天津で大事故が起こったのか? 
 この事故によって打撃を被るのは誰か? 
 習近平主席は、来月9月3日に、抗日戦争戦勝70周年記念軍事パレードを、北京で挙行しようとしている。
 これは習近平主席にとって、今年最大のビッグイベントである。

 この期間、北京の首都機能の一部は天津に代替される。
 例えば、国内外のあらゆる民間航空機は北京首都国際空港を使用禁止となり、天津空港発着となる。

 また習近平主席はこの軍事パレードを契機として、北京市、天津市、河北省の一体化を進めようとしている。
 その一環として、習近平主席の肝煎りで天津市は、上海市に続く自由貿易区に指定された。

 つまり、今回の天津市の事故で赤っ恥をかいたのは、習近平主席なのである。
 私には、とても単なる事故には思えない。



ダイヤモンドオンライン  2015年8月21日 莫 邦富 [作家・ジャーナリスト]
http://diamond.jp/articles/-/77032

天津市の没落を象徴する、
爆発事故での呆れた対応

 中国出張に行ってきた。
 上海の虹橋空港に降りたら、出迎えに来た浙江省の地方政府の関係者に、すぐに車に乗せられ、寧波市の管轄下にある象山県に行った。
 その日の深夜11時半頃、遠く離れた天津市浜海新区で大規模爆発事故が起きた。

 戦術核ミサイルの投下に相当するその爆発は17日の時点で、死者が114人、消防隊員64人を含む行方不明者が70人、という重大な事故を招いた。

 問題は爆発事故だけではなく、なぜ住宅区の近くに危険な化学物資が保管される倉庫を設けたのか、その許認可をめぐる不思議さ、天津市政府の度を過ぎた幼稚かつ乱暴な対応、倉庫を運営する会社の不可解さ、住民の知る権利に対する酷すぎる侵害などなど、多岐に広がっていく。

 以上の問題のどれも、真相が究明されるまで追及すべきだが、天津という町がここまで遅れを取ってしまったのかをあらためて認識させられた。

■天津はかつて上海に次ぐ屈指の商工業都市だった

 天津は長い間、中国にとっては非常に重要な都市だった。
 中国語では、「天子」という言葉が皇帝を指す。
 「津」は渡し場、港という意味だ。
 したがって、天津とは、天子が通った渡し場となる。
 明王朝の1400年に天津と名を定めてから、この地名は今日にまで至っている。
 これまで河北省の省都になったり、直轄市または河北省の省轄市に変更されたりしてきた。
 1967に再び直轄市となり現在に至る。

 重慶が直轄市になる1997年まで、中国には直轄市が3つしかなかった。
 北京、天津と上海だ。
 天津は中国北部を代表する最大の港湾都市として、近代に入ると最も早く諸外国に開かれ、中国北部の開放の最前列となり、中国の富国強兵、近代化を目指した洋務運動の中心地となった。

 天津の推し進めた、鉄道、電信、電話、郵便、採鉱、近代教育、司法などの近代化的整備は全国の先駆けとなり、上海に次ぐ第2の商工業都市となり、北方最大の金融・商業・貿易の中心にまで上り詰めた。
 たとえば、往時は100を超える国内外の銀行が参入し、全国総資本の15%を占めるほど、北方最大の金融都市としてその存在を誇った。

 市内の街角に年代の風雪を感じさせながら気品を漂わせる洋風建築が何気なく建っている。
 これらの洋風建築は「小洋楼」と呼ばれ、イギリス、フランス、アメリカ、ロシア、イタリア、オーストリア、ベルギー、ドイツなど多くの国々の建築特徴や様式をもつ。
 天津の歩んできた近代の歴史を静かに語り続け、旅人の心を和ませている。

 しかし、この輝かしい歴史をもつ天津はここ数十年、ずっと下り坂を転ぶかのように地盤が沈下している。

■天津は今や中国で最も地盤沈下の激しい都市に

 1980年代半ばまで、北京、天津、上海(滬)を言い表す「京津滬」という熟語があるように、天津は北京、上海と肩を並べる中国有数の大都市で、産業、商業、海運、鉄道のどれを取っても、その存在は侮れなかった。

 だが、1978年から始まった改革・開放は中国の都市勢力図を大きく塗りかえた。
 80年代の後半から、天津はだんだん改革・開放の波に乗れなくなり、いつの間にか「つかみどころのない都市」となってしまったのである。
 1990年代に入ってから、中国で地盤沈下がもっとも激しい大都市といえば、多くの中国人がまず天津を思い浮かべる。

 改革・開放が始まって間もなかった1980年代初期、珠江デルタの経済的実力は京津唐地域(北京、天津、唐山)のそれに遥かに及ばなかったが、90年に入ると、両者は互角となった。京津唐地域はいまや話にならないほど後れをとってしまった。
 なかでも、天津の地位低下には目を覆いたくなるほどのものがあった。

 ここでは、ひとつのエピソードを披露してみよう。

 拙著に、中国各省・市・自治区の概要を紹介した『中国全省を読む地図』(新潮文庫)という本がある。
 2001年に出版されたものだが、執筆作業は自然に自分が比較的よく知っている地域から書き、最後に書いたのが天津市だった。
 3回も書き出したが、天津の特徴をいまひとつ掴んでいないと思って筆を投げ出した。
 これ以上後回しにできない最後の最後になって、なんとか天津の章をまとめた。

いまの中国では、北京、天津、上海という3つの直轄市の実力を誇示する「京津滬」という熟語はもう聞かれなくなって久しい。
 変わって登場したのは「京上広」だ。
 つまり北京、上海、広州という3つの都市を指す。
 広州はただの省都だ。
 直轄市のランクまでは行っていない。
 都市間の競争は、南の都市が勝ち、保守的な北方が大きく後れを取っている。
 天津市がその代表として消えて久しい。

 「京上広」という新しい順位もいまやまた変わろうとしている。
 これからは「京上深」つまり北京、上海、深センになるかもしれない。
 深センの成長と飛躍に比べて、天津はすでに取り返しがつかないほどの後れをとってしまった。
 今度の爆発事故から見れば、天津の後れは端的に幹部の人材、意識に集中していると言えよう。

■事故対応での市政府関係者の堕落した態度は象徴的

 今回の事故でもすでに数回も記者会見を行ったあとでも、事故現場で指揮を取っている市政府の責任トップが誰なのかという簡単な事実も説明できないでいた。
 事故に直接責任を負う倉庫の運営会社についての情報も開示しようとしなかったその傲慢な態度に、天津に対する絶望感を覚えた。

 2001年に、中国のネットにアップされた「絶望的な天津」と題する文章が当時、広く読まれた。
 パソコンの資料データファイルから、この文章を探し出して再読すると、14年前に書かれたものとは思えないほどの鮮度が保たれている。

 後れを取り戻そうとやけになった天津側は、天津を発展させるには北京との合併以外に道がないと思うほどに追いつめられた。
 しかし、天津が持ち出した合併案に対して、北京側は、「北京の火葬場を天津に移す程度なら考えてもいい」と一蹴した。

 ここまで侮辱されていいのか、私は判官贔屓で天津の肩を持っていたが、今度の爆発事故後の天津市政府関係者の対応を見ると、意外と核心を突いた発言だったかもしれない、という心境になってきた。

 新生天津のために、腐りきった天津市政府関係者をしっかりと抉り出す外科的手術が必要だ。





中国の盛流と陰り



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