2015年6月29日月曜日

「東洋一の堅艦」と呼ばれた清国の戦艦「鎮遠」、 その錨が日本の岡山市にあるって知ってました?

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レコードチャイナ 配信日時:2015年6月29日(月) 7時20分
http://www.recordchina.co.jp/a112636.html

「東洋一の堅艦」と呼ばれた清国の戦艦「鎮遠」、
その錨が日本の岡山市にあるって知ってました?
=中国ネット「知らなかった!取り戻そう!」




 2015年6月27日、中国中央テレビのウェブサイト・央視網は、同局が制作したドキュメンタリー番組
 「甲午(日清戦争)第5回:沈没」
の動画を公開した。
 以下はその概要。

 日清戦争において、黄海海戦(1894年9月17日)で激突した清国海軍の北洋艦隊と日本海軍の連合艦隊の間には、軍事力レベルに大きな差が開いていた。
★.北洋艦隊には1881年の建設当時、「東洋一の堅艦」と呼ばれていた甲鉄砲塔艦「鎮遠」や同等級の「定遠」などの主力戦艦12隻が含まれていたが、総トン数は3万2396トン。
★.連合艦隊は同じく12隻だったが、その総トン数は4万849トン
だった。
 各艦の最大出力や最大速度を比較しても、その差は歴然としており、
★.清国海軍は黄海海戦で巡洋艦「経遠」「致遠」「超勇」「揚威」の4隻を失ったが、
★.日本側は巡洋艦「松島」、コルべット艦「比叡」、砲艦「赤城」、仮装巡洋艦「西京丸」4隻が大破したものの清国に比べて被害は小さかった。

 この海戦で大きな損害を出した清国海軍は事実上無力化し、1895年1~2月の威海衛の戦いで日本海軍に敗北。
 鎮遠は前年の12月14日、威海衛沖で座礁していたが、同年2月17日に日本海軍につかまり、戦利艦として日本海軍に編入。
 日露戦争に参加した後に練習艦となり、1912年に解体されたが、その主錨は現在、岡山県岡山市の吉備津神社となりの「福田海本部」という宗教施設の敷地内に安置されている。
 この施設は食肉として処理された牛の鼻輪が全国から集められてできた「鼻ぐり塚」があることで有名だが、鎮遠の主錨はその塚の奥に設置されている。

この動画を見たネットユーザーの反応は以下の通り。

「知らなかった!」
「取り戻すべきだ」
「戦利品なんだから、日本の物でしょ」
「歴史を知ることのできるドキュメンタリーっていいよね。
 くだらない抗日ドラマをやめて、ドキュメンタリー番組を放送してほしいよ」